正覚寺について

実相山正覚寺は元和5年(1619年)に日栄上人によって開山された日蓮宗の寺院です。碑文谷法華寺(現在の円融寺)の末寺として創建された正覚寺は、不受不施派として幕府からの弾圧を受けるなど困窮した時代にも直面しましたが、伊達家三代目藩主綱宗の側室である三沢初子の帰依により寺門繁栄に貢献し、伊達家との縁の深い寺院として400年以上もの歴史を紡いで参りました。令和元年、正覚寺開山400年を記念して改修された鬼子母神堂では、三沢初子が祈念したとされる安産・子育の神様、開運子安鬼子母神が祀られております。東京中目黒、都心に佇む静寂の中で、どうぞ仏教と自然の慈悲をご体感ください。

鬼子母神様について

正覚寺の祈祷本尊として祀られている鬼子母神像は、伊達家三代目藩主綱宗の側室である三沢初子が我が子の無事を祈念した伝教大師作開運子安鬼子母神様のご尊像。元々は“鬼子母”という言葉の通り、人間の子を食べてしまう鬼として恐れられていた存在でした。しかし、悪事を見兼ねたお釈迦様が鬼子母の子を壺に隠して説法したことで、鬼子母は我が子を失う親の悲しみを悟り、お釈迦様に帰依して人の子を守る善神になったと言われています。また、そうした由来から、種が多く子孫繁栄の意が込められている吉祥果「ざくろ」が鬼子母神様の好物とされており、境内に植えられているほか、正覚寺を象徴する寺紋として今でも大切に扱われています。

伊達家三沢初子について

正覚寺の境内に入るとまず目に付く、打ち掛けを羽織った女性の銅像。彼女は正覚寺の隆盛の基盤を築いた伊達家三代目藩主綱宗の側室、三沢初子です。三代目藩主綱宗の隠居謹慎により、わずか二歳で藩主となってしまった我が子の安全を鬼子母神像へ祈念し、当時は正覚寺にも深く帰依されていたと言われています。壮絶な人生の中でも慈悲に満ち溢れた三沢初子は、歌舞伎「伽羅先代萩」の主要人物である政岡のモデルとされ、現在も広く語り継がれています。四十七歳で生涯を閉じた彼女の亡骸は、彼女の父母が眠る当寺に収められ、遺命により奉納された邸宅はその部材を活用して正覚寺の諸堂が建築されるなど、現在も鬼子母神堂や寺務所等で彼女の往時を偲ぶことができます。